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騰格里砂漠 内蒙古 #2 [寧夏回族自治区]

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朝目が覚めて、朝食前の散歩に出かけたら、もう6時半を回っていたのにちょうど夜明けだった。中国は大きいな国だが国内に時差はなく、普段から西に住む人は冬は真っ暗な内に出勤するのだろうと思っていたが、行ったあたりでも北京よりも1時間はど夜明けが遅いように感じた。 そのおかげで砂漠から上がる太陽を見ることができた。

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太陽が完全に地平線から離れた。

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湿地帯の野鴨も早起きで朝から一生懸命食事中だった。

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湿地帯から砂漠の方に歩いていくと、遠くに駱駝がいるのが見えた。

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近づくと、人が何頭もの駱駝を追っている。駱駝は一列でゆっくりと着いて歩いていく。見ていると湿地帯へ草を食べさせるために向かっていた。

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十頭あまりの駱駝が長い長い列になってゆっくりと通り過ぎていく。

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朝食を済ませて、駱駝に乗って砂漠の奥まで出かけた。

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砂漠の奥にはやはり大きな湿地帯があり、その周りを広大な砂漠が取り巻いている。

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砂漠を歩き続ける。

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風は強くなく、前の日より砂は飛ばない。

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砂丘と砂丘の間の低いところに少しだけ草が生えていたりする。

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足跡があったので駱駝かと思っていたら、放牧されている馬(ロバ?)のようだった。無心にほんの少しの草を食んでいる。

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駱駝に乗った観光客がやってくる。

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午後まで砂漠を堪能して、またジープと軍用トラックに乗って砂漠を出て、そこからまたバスで空港まで3時間弱。夜の飛行機で北京に戻った。

今日から国慶節の休み。

 

 


騰格里砂漠 内蒙古 #1 [寧夏回族自治区]

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西夏王陵からバスで賀蘭山を越え、内蒙古自治区に入りバスで2時間走った後、砂漠の入り口に着く。バスが走った道も舗装されていない細いでこぼこ道だったが、砂漠の中はシープを軍用トラックで移動だ。

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私が乗ったジープ。これのジェットコースターの様な運転に40分。車の中で頭を何度もぶつけ、横転しそうと思ったことも何度か。やたら尾根の上に行って落ちるのだが、後で分かったのは砂漠は砂が動いているが、尾根の上は砂が浅く運転しやすいのだろうということ。

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こちらは軍用トラック。

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騰格里(テン・グ・リ)砂漠 は、中国で4番目に大きい砂漠で内蒙古から甘粛省にかけて広がっている。砂漠の中には数百の小さな湖があるということで、私たちが行ったのは月亮湖という場所。砂漠の中には湖を中心に湿地帯があり、草が生えている場所があるので放牧が行われている。

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月亮湖リゾートは湖のそばにあり、湖での水泳や砂漠でのらくだやサンドバイクに乗っての観光ができ、中国人の観光客が1週間程度のんびりする場所とのこと。私たちはここに1泊。

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ホテルはまだ出来て数年で新しく、そこそこ立派だ。日本人はほとんど来ないらしいが、日本人を期待してサインは中国語、英語、日本語で書かれていた。 ホテルのそばには湖と湿地帯。写真はそこに咲いていた花。良い香りがした。

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チェックインして昼食を済ませて、午後は砂漠を歩き回った。真夏には気温は40度も超えることがあるということだが、すでに9月中旬なので気温は30度以下。乾燥しているので意外と過ごしやすい。

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風が強く、砂が飛んで砂丘が形を変えるということが実感できる。

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迷子にならないように帰りの方向を確認しながら歩く。

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月亮湖につながる湿地帯。

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湿地帯には何種類かの鳥がいた。

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夜は中秋節の月を背景にモンゴルの歌と踊りのショー。

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モンゴルの歌と踊りのショーはだんだん中国の旅行者のカラオケ大会になっていった。

 


西夏王陵 寧夏旅行 [寧夏回族自治区]

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東洋のピラミッドと呼ばれる西夏王陵にも行った。ただこの日は内蒙古の砂漠に移動する日だったので時間が足りなく残念だった。

西夏の名は、そもそも中国の古代に夏という国があったためにこれと区別するために地理的な位置から西夏と現在呼ばれているだけで当時は夏が国号だった。

この時代は中国の歴史上でも2度目の三国時代だそうだ。唐の滅んだ後小さな国が争う状況が100年近く続き、10世紀の終わり頃から、中国南部を中心とする漢民族の宋、北東部を中心とする切丹人の遼、それと西部を中心とする西夏の3つの国に集約された。

西夏は11世紀初めに正式に建国され現在の寧夏の銀川市を都として、シルクロードを通じた貿易により繁栄したが、 13世紀初めモンゴルの攻撃により滅亡した。

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西夏は現在の寧夏、甘粛省、陝西省北部、青海省東部と内蒙古の一部にまたがる王国だった。独自の文字と文化を持つ豊かな国であったが、現在ではその文化的な遺産の多くは失われている。

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王陵は銀川市の郊外にあり、40平方キロメートルにわたって9基の王墓と140基の陪塚が並んでいる。現在では、その中の1基のみが博物館とともに公開されている。時間が無かったために博物館が駆け足の見学になってしまい残念。これが団体旅行の宿命なので仕方がないが。

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王陵は王墓を中心にして4隅の各楼や献殿や宮門、城壁から成り立ち、 一番上の写真は宮門の遺跡。奥が王墓。宮門は左右対称で両側にある。

このすぐ上の写真が王墓で手前に地下の墓に降りる階段が見えた。

宮門を含め、すべて土の山にしか見えないが、これはモンゴル軍が三ヶ月かけて徹底的に破壊したためで、当時は瑠璃の瓦に覆われた装飾があり、唐や宋の漢文化やタングート文化が融合した壮麗な建築群だったと想像されているが実際は良くは分かっていない。

博物館には想像のモデルが展示されていたが、四隅の角楼はかなり高い建築で、中心の王墓を取り囲み、現在のように荒れ地に広がる土のピラミッドという雰囲気とはまるで違っていたようだ。

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中心の王墓。実際の墓は地下数十メートルにあるので、この建物の中が墓だったのでないそうだ。緑色などの瑠璃瓦の破片などが博物館にあったので、当時の色が想像されるが、現在はただの泥の山だ。

当時の都の興慶府(現在の銀川市)の郊外に広がる、壮麗な王墓建築群を想像するにつけ、当時の興慶府の風景に興味をかき立てられる。

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数も多いが、破壊に三ヶ月もかかったというのも驚いた。

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城壁などは干煉瓦で出来ているが風化がすすんで土に帰ろうとしている。

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200年近く続いた西夏は、チンギス・ハン率いるモンゴル軍の攻撃で滅び、その文化などを伝えるものはほとんど残されなかった。ただ、西夏も簡単に滅んだわけではないことは、チンギス・ハンは毒矢にあたり、二度落馬して、ついには西夏攻略後に亡くなったことからも明らかだ。その遺体は、この寧夏のどこかの山の中に葬られ現在まで場所は分からないそうだ。

 


賀蘭山の仏塔 寧夏旅行 [寧夏回族自治区]

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賀蘭山の麓の岩画のそばに仏塔が残されている。拝寺口双塔と呼ばれるが、かつてはたくさんの仏塔が建っていたらしい。

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かつてというのは、13世紀の初めに西夏王国がチンギス・ハンによって滅ぼされるまでなので、ずいぶん前の話だ。

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ここにはその時までにはたくさんの仏塔が建っていたが、チンギス・ハン率いるモンゴルの攻撃の際に破壊されたそうだ。

このレンズは街中で使っている時には気がつかないが、ずいぶんゆがんでいるのがこの写真をみて分かった。

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西夏王国を打ち立てた、トルコからの移民の末裔が西夏を建国したという説明があった。帰って調べると西夏を建国したのはチベット系のタングート族だと書かれているのでどちらが本当か分からない。

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西夏王国に興味を持ったのは井上靖の「敦煌」に登場する謎めいた異国の雰囲気にあこがれたのだが、西夏王国は11世紀から13世紀の間の180年程度しか存在しなかったこと、モンゴル軍が徹底的な破壊を行ったので残されているものが少なく、現在もその文化などは良く分かっていないらしい。

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岩画にも書かれていた西夏文字も今では意味の解析などは進んでいるが、まだ発音を含んだ読み方は分かっていないらしい。

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この仏塔やそれ以外のものもモンゴルの破壊の後でも、文革時の破壊などで、多くは再建された物だ。

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トルコ系の民族でシルクロードを通じた貿易により莫大な富を得て繁栄した西夏王国がどうして仏塔を建てたのか。彼らがトルコ系ではなく、チベット系だとしたら納得がいく。

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西夏王国を建てたタングート族が勃興する時期は、強大だった唐朝末期にあたり、力の弱った唐の代わりに節度使という役職で半ば独立した形で、現在の甘粛省や寧夏周辺の統治を行い、唐の皇帝より、その名前「李」氏を与えられて、李氏を名乗っていた。彼らは、唐に代わって中国全体を統治することを考えて、漢民族に受け入れやすい仏教に改宗としたのだろうか、それともトルコから渡って中国に移り住んだ間に改宗したのだろうか。それともガイドの説明が間違いでチベット系だったのか。

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もう少し調べてみないと、現時点では西夏のことはよく分からない。旅行に行く前に持っていたイメージ、「敦煌」に登場する異国、西夏とその豊かな都、興慶府、それに不思議な文字は、結局あまり変わらず、文字の実物を見ただけで終わってしまった。


賀蘭山の岩画 寧夏旅行 [寧夏回族自治区]

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水洞溝遺跡公園の次に向かったのは銀川市の西の内蒙古自治区との境界にある賀蘭山の麓
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ここは、紀元前1000年くらいから西夏王朝の時代までに岩に描かれた画が残されている。
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岩を削った物もあれば、植物や動物の血を使って描かれたものなど様々。特定の民族が残した物ではなく、この地に住んだ様々な民族が描いた画だ。その画は大胆かつ素朴でずいぶんたくさん撮ったが一部のみ紹介する。
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この写真の画は西夏の特徴的なもの、左に書かれた文字は西夏文字
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この地に住んだ人は遊牧民だったことを反映して動物の画が多い。また人の顔もたくさんあり、それぞれ特徴的だ。
この沢には野生の羊が水を飲みにくるということで待っていたが結局現れなかった。

遺跡発掘 寧夏旅行 [寧夏回族自治区]

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水洞溝遺跡公園は広大な場所で、中には山あり荒野あり池ありと様々な景色を見ることができた。

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見る場所が離れているので、船、馬車、ゴルフカートを利用しての移動。

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水洞溝は中国で初めて旧跡時代の遺跡が発掘された場所だそうで、何カ所でも調査が行われた場所を見ることが出来た。

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これは旧跡時代ではなくもっと新しい物、この表情に惹かれて写真を撮った。

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これも同じく新しい物。

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発掘調査が行われた場所

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最初にここで遺跡を発掘したのは二人のフランス人だそうだ。二人はこの建物に10年も住んで発掘を続けたということだ。1920年代の話である。

その後、中国政府が発掘調査を何度も行い、数万点におよび石器などの発掘が行われて、現在はそれらを展示する博物館が建築中であった。

この項続く

 


万里の長城 寧夏旅行 [寧夏回族自治区]

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地下砦を見た後、馬車に乗り、その後延々と歩いてついた場所は荒野の真ん中の万里の長城。当時のモンゴルと中国の国境に建設され、右がモンゴル、左は中国。

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北京の周辺にある煉瓦で作られた物でなく、土がむき出しの素朴な長城。風化が進んでぼろぼろ。

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見渡す限り、荒れ野に長城が続いて行くいるのが見える。

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この辺りでは壁としての垂直な面は残されていない。

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道路から見えた場所の長城は保存状態の良い、垂直の壁をもっていた。ただ、この風化の進んだ壁は別の意味で訴えるものを持っているように思えた。

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長城の壁の途中に花も咲いている。

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世界の馬鹿建築の一つに数えられることもあるが、このような何もない荒野に国境があり、元の時代を経験した明の皇帝は防衛のために真剣にこの壁を作ったのだろう。こういうものを見るにつけ、島国で守るべき国境を持たなかった日本の幸運を思い出させられる。

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荒れ地に転がされた石は、旗竿の台だそうだ。上の丸は天を下の四角は地を意味しているそうだ。

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そばの石のかけらには植物の模様が刻まれている。

この項続く


水洞溝 寧夏旅行 [寧夏回族自治区]

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寧夏(ニン・シャ)の銀川(イン・チュアン)への旅行の続き

北京首都空港を7時50分に出発して、銀川河東空港に着いたのは9時30分前。そのまま、ガイドさんに案内されてバスに乗り込む。こういうツアーに参加した経験があまりないのだが、昨年の九賽溝の旅行の経験から中国国内の個人旅行は私には無理そうなので、今回は団体旅行。

空港から最初に連れて行かれたのは、水洞溝(シュエイ・ドン・ゴウ)という一種の歴史遺跡公園、公園と言っても非常に広大。中で馬車、船、ゴルフカートと三種類の移動方法を使って見学した。見学できる遺跡は石器時代と明の時代のもの。

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中には荒れ地が広がる。ゴビ砂漠の一部だそうだ。ゴビ砂漠という砂のいわゆる砂漠はなくて、ゴビ砂漠は土と石ころでそこに草が少し生えている土地が延々と続くような場所だということ。雨が少ないのと、たぶんその時は説明されなかったが、土質が塩分を少し含んでいるので植物が育ちにくいのだろう。

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粘土で出来た自然の壁を通り抜けて歩いていく。

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山際に地下へ降りる階段があった。ガイドの女性が先導する。彼女の言うことは私には分からないので、英語のできるガイドが後に続く。

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ここは明の時代の地下砦。兵士たちがこの地下の迷路のような砦で、モンゴルの軍隊と戦ったのだろう。

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地下の砦はいくつかの場所で切り通しのような場所の中腹に窓が開いている。

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これが窓。空気や明り取りではなく、ここから下を通る敵を攻撃するためのものだろう。

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地下の迷路は観光用に中の壁が造り替えられ、あちこちに照明も取り付けられていたが、かつては真っ暗ななかで生活していたのだろう。将軍の部屋や兵士の部屋、牢屋、下に槍が取り付けられた落とし穴などいろいろなものが残されている。

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迷路から外に出ると、中国人の団体が入っていった。中国の団体旅行の特徴はみんなで同じ帽子をかぶること。

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ここからは、ロバの馬車で次の遺跡に移動。

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中には池や湿地帯があり、塩分にも関わらず植物が茂っている。

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モンゴルとの国境近くのこの砦は、万里の長城の内側にある自然の要塞だったのだろう。この山の粘土のような土は加工も容易で地下を掘るにも適していたし、万里の長城の材料にもなっている。雨のが少ないことも幸いしてあのような地下の迷路が維持できたのだろう。

また、黄河の水が茶色なのもこのような土質の場所を流れているからだと思われる。

この項続く。


銀川市 寧夏回族自治区 [寧夏回族自治区]

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中秋節の休みを利用して寧夏回族自治区と内蒙古自治区に旅行した。と言っても行ったのは寧夏回族自治区の銀川市周辺と内蒙古自治区の騰格里砂漠の一部だけだ。

北京から飛行機で1時間半、銀川河東空港に降りる。空港のそばに河が流れており、その色はミルクチョコレートの色だった。これが黄河だった。旅行はそのまま、郊外の明の時代の万里の長城や地下要塞、河蘭山の遺跡などを見学して銀川市の中心のホテルに宿泊した。上の写真は内蒙古自治区との境、銀川市の西にある河蘭山。

見物した遺跡などは次回以降のエントリーとして、今回は銀川市の夜の様子。昼間はバスで通過しただけなので写真が無いが、人口133万人の町にしては近代的なビルやコンベンション・センターが並び、メインストリートは片側5車線という広大な道路の近代都市だ。井上靖の「敦煌」に登場する西夏の都、興慶をイメージして行った私は拍子抜け。まったくその面影はない。

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銀川市のホテルのそば。写真を撮ったのは13日なので満月の2日前。周辺は北京にもあるようなショッピング・センターやデパートもあり、活気があった。

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街の中心部で食事をした後、ホテルまで歩いて帰りがてら写真を撮った。銀川市は、デパートは夜10時まで開いており、一般の商店は真夜中まで営業している。旅行のガイドさんは地元の英語が上手な方だが、その彼女の話によれば、非常に安全で観光客が夜中に一人で歩いていても何の問題もないということだったが、念のために大通りだけを通ってホテルまで帰った。

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回族はイスラム教徒の少数民族で寧夏はイスラム文化圏。豚肉は食べられない。

夕食に行ったレストランは清真料理(イスラム)で、豚肉が無い以外は中華と変わりなかった。特に羊の肉をたくさん食べると言うことで、臭みの無い羊肉の塊の塩茹でした料理はシンプルな味付けで薄味好みとしては非常にいけた。

写真は街の中心の公園の前の鐘楼。レストランのすぐそばだった。

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写真は鼓楼。上の鐘楼のすぐそばにある。

寧夏回族自治区の回族は、唐やそれよりも前の千数百年前にトルコやアラビアから渡ってきた人で、この間に漢族との混血が進んだのか、見掛けはまったく漢族 と変わらなく、ただイスラム教徒というだけのことだそうだ。それも非常に敬虔な戒律の厳しいイスラム教徒でもないらしい。寧夏回族自治区でイスラム教徒の 少数民族の人口に占める割合はたった三分の一ということで、中国化つまり漢民族化がかなり進んでいるようだ。

モスクもたくさん見かけたが、街の中心に、北京と同じように鼓楼や鐘楼が造られているのも見かけた。西夏王朝の時代からあるのだろうかと一瞬考えた。でも西夏王朝が元よって滅亡した際に徹底的な破壊を受けたので、その時代の物は何も残っていないはずだ。北京が遼の首都として元に占領された時も、初めは、元は北京を徹底的に破壊して牧草地にしようと計画したという話があると聞いているので、西夏の都、興慶もすべて灰燼に帰したのだろう。

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街中は、夜の9時で商店も開いているし人通りも多くにぎやかだった。

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まだまだたくさんの人が食事中。一般的に中国は夕食の時間が早いと思うが、9時でもまだ真っ最中。北京などでは10時閉店ということが多いがここは違うのかもしれない。

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少し町外れにりんごと梨を売っている女性がいた。値段を聞くと小さめなりんごで500g1元だった。

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この街でも北京のように工事現場が多く、こんな夜でも工事現場で働く人をたくさん見かけた。 

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賑やかなデパート周辺。街の中心は北京とそうは変わらない。

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翌朝、ホテルの窓から。ホテルはインターネットアクセスもあり、英語放送も受信できる近代的なホテルだった。


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